2009年07月02日

九州大学の同窓会には

九州大学の同窓会には、13の部局別同窓会とその他地区別に組織されている同窓会があり、九州大学同窓会連合会がそれを束ねている。1999年に設立され、地区別同窓会の設立を支援するなどの活動をしている。

ダイエット日記に挑戦
スキューバダイビングを楽しむ生活を!
ゴルフパークへようこそ!
おもちゃの小部屋
スターライトのカーマニア
ガーデニングの箱
かわいいネイルでオシャレ
キャリアセンターのカッパさん
キャンプねっと。ファミリー特集!
おしゃれな女性ファッション
クチコミグルメランキング
くるくるクーポン情報
ゴルフに連れてって!
てのひらでDVDポータルぴあ
とっておきのアウトドアスポット
マーメイドの観光農園視察
インターネットストーリー
マイホームの掃除術伝授
ママの携帯電話アリーナ
モデルのポンポン活動報告
ルーキーのグルメ食べ歩き!
仮面自動車視察ツアーの案内

旧帝国大学の出身者および学長、教授、助教授経験者で構成される団体として社団法人学士会があり、九州大学関係者も多数入会している。
九州大学ではそれぞれの校地をキャンパスではなく地区と呼んでいるため、この節の表記も地区としてある。
地区内は理系キャンパスと文系キャンパスに分かれている。福岡空港16番滑走路に着陸する直前の飛行機が真上を通過する。理系キャンパスには大学本部や旧法文学部棟など倉田謙の手になる大正時代に建てられた古い建物がいくつか残っている。九州大学の赤本の表紙にある建物はこのキャンパスにある工学部本館でやはり倉田の設計で昭和5年に竣工された。なおこの地区の学生寮としては男子寮の松原寮、女子寮の貝塚寮がある。平成31年度移転完了予定。

2009年06月13日

素粒子物理学(そりゅうしぶつりがく)は

素粒子物理学(そりゅうしぶつりがく)は、物質を構成している最小の要素である素粒子を研究対象とする物理学の一分野である。

大別して素粒子論(素粒子理論)と素粒子実験からなる。また実証主義、還元主義に則って実験的に素粒子を研究する体系を高エネルギー物理学と呼ぶ。 粒子加速器を用い、高エネルギー粒子の衝突反応を観測することで、主に研究が進められることから、そう命名された。しかしながら、現在、実験で必要とされる衝突エネルギーはテラ電子ボルトの領域となり、加速器の規模が非常に大きくなってきている。将来的に建設が検討されている国際リニアコライダーも建設費用は一兆円程度になることが予想されている。また、近年においても、伝統的に非加速器による素粒子物理学の実験的研究が模索されている。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝

何をもって素粒子とするのかは時代とともに変化してきたし、立場によっても違い得るが標準理論の枠組みにおいては、物質粒子として6種類のクォークと6種類のレプトン、力を媒介する粒子としてグルーオン、光子、ウィークボソン、重力子(グラビトン)、さらにヒッグス粒子等が素粒子だと考えられている。超弦理論においては素粒子はすべて弦(ひもともいう)の振動として扱われる。

2009年06月09日

防衛医科大学校

防衛医科大学校(ぼうえいいかだいがっこう、英語:National Defense Medical College)は、埼玉県所沢市並木3-2に本部を置く日本の省庁大学校である。1973年に設置された。大学校の略称は防衛医大、防医、NDMC等。

医師である幹部自衛官の養成や、自衛隊の医官(戦前の軍医に相当)の教育訓練を目的に開設された。歯科医師の養成機関はない[1]。行政機関の分類上は防衛省の施設等機関に分類され、文部科学省が所管する大学とは異なるが、医科大学に準じた取扱いがなされている。

大学(校)側が学費を負担する目的別医科大学(校)の一つである。入学した学生は定員外の防衛省職員・自衛隊員(特別職国家公務員)となり、大学校の入学金と授業料は無料で、毎月の学生手当(給与)と年2回の期末手当(2006年時点で月額106,700円。期末手当が年額約380,000円)、および被服が支給される[2]。

卒業後は、医科幹部候補生として陸上・海上・航空の各幹部候補生学校で約6週間の教育訓練を受け、医師国家試験に合格後、幹部自衛官(2等陸・海・空尉)に任官する。2年間の初任実務研修(防衛医科大学校と自衛隊中央病院で臨床研修)を受けるが、大学の医学部で実施されているマッチングは行われていない。その後、自衛隊病院や部隊などで勤務する。
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9年以内に自衛隊を退官する場合は、大学校卒業までの経費(最高5,021万円)を国庫に返還する必要がある。しかし、近年は自衛隊病院にいては臨床経験を積むことが困難(受診者が頑健な自衛官及びその家族に限定されており、様々な症例に接したり、手術等の経験を積むことが困難といわれる)であり、医師としてのスキルアップに不安がある等の理由から、3分の1の者が9年の年限を待たずに退官している[3]。

大学校には、内科、精神科等の15の診療科がある特定機能病院の防衛医科大学校病院、傷病者の診断・治療、救急救命に必要な研究・開発を行う防衛医学研究センター、看護師を養成する高等看護学院が設置されている。

防衛医科大学校は大学と同じように入学試験が行われるが、応募資格には年齢制限があり、入校年度の4月1日時点で18歳以上21歳未満でなければならない。受験料は無料である。

防衛大学校の偏差値が60前後といわれているのに対し、本校は、70前後と非常に高く、年度によっては東京大学理科?類に匹敵、または準ずる難易度といわれ、学生の学力は非常に高い。また全寮制であり、勉強時間も確保できるためか医師国家試験の合格率が非常に高く、全国1位になることもある。(詳細は、下記の年表の欄を参考)入試内容は、第1次試験で「択一式」(国語・数学・英語の3教科に対して試験時間90分)と「記述式」[4](国語、外国語、理科、数学の各試験時間は60分、100分、120分、100分)が行われ、第2次試験で口述試験と小論文試験及び身体検査[5]が行われる。第1次試験では、択一式で一定の得点に達しない受験者については、記述式の採点を行わない場合がある(平成21年度入校用募集要項)。問題冊子は回収される。詳細は自衛官募集ホームページ[6]を参照のこと。

防衛大学校同様に一次試験は毎年秋ごろに地元で行われるため、毎年他医学部、難関大学を受験する多数の生徒が力試しとして受験する

2009年04月25日

カイクバード1世

アラーウッディーン・カイクバード1世(Alā' al-Dīn Kayqubād, 1188年 - 1237年)は、ルーム・セルジューク朝の最盛期を築いたスルタン(在位1219年 - 1237年)。
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カイホスロー1世の子。1211年に父がニカイア帝国に敗れて戦死した後、兄カイカーウス1世との後継者争いに敗れ、監禁されていた。1219年、兄が病死すると後継者としてコンヤに迎えられて即位し、ギリシャ系の奴隷身分出身者や、モンゴルの征西によって逃れてきたペルシア系の人々を積極的に取り立てて君主の強権を確立した。また、国力の増大のために商業や文化を振興奨励、支配下の各都市にモスク、隊商宿、ハンマーム(公衆浴場)などの公共施設を建設した。これらの中には現存するものも多い。

対外的には領土拡大を積極的に行い、1223年にカロノロス(現アランヤ)を征服して地中海岸の領土を広げ、1227年にはスィノプから黒海を越えて軍を送り、クリミア半島の港湾を征服、周辺のキプチャク遊牧民を服属させた。

1230年にはアナトリア東部で再起をはかっていたホラズム・シャー朝のジャラールッディーンを破ってその領土を吸収し、さらにエジプトのアイユーブ朝とシリア北部の領有をめぐって対立し、1234年にアナトリアに侵入したアイユーブ朝の軍を撃退した。カイクバードの治世にルーム・セルジューク朝の領土は最大限に広がり、カイクバードはその最盛期を築き上げセルジューク朝の復興を遂げた名君と評価される。

1237年、軍を召集して新たな遠征に出発しようとした途上、カイセリで急逝した。長子で後を継いだカイホスロー2世により毒殺されたとする説が有力である。カイホスローの治世にはトゥルクマーン遊牧民の反乱が起こり、またアゼルバイジャンに駐留するモンゴル軍に敗れて、ルーム・セルジューク朝は急速に衰退していった。

2009年04月08日

ディキシーランド・ジャズ

ディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz)は、クラシック・ジャズに分類される一分野。「ジャズの最初の形態」と認識されることが多い。

主に、複数の管楽器に、ピアノ、バンジョーなどを加え、6?7人以下の編成で演奏される。譜面に縛られない自由な演奏スタイル(パートごとの即興演奏)を重視する。

ディキシーランドとは、アメリカ南部の諸州を指す通称や俗称。この名称の由来は諸説あるが、ルイジアナ州等一時期フランス領だった地域で、その間の流通紙幣に10を表す「DIX」という文字が印字されており、その地方(LAND)という事から生まれたという説や、測量技師ディクソンの名による説もある。ディクソンは相方のメーソンと共に、南部と北部を分ける線(メーソン=ディクソン・ライン)を引いた人物である。

概容 [編集]
もともと、ディキシーランド・ジャズという呼称は、黒人によるジャズ(ニューオーリンズ・ジャズ)と区別する為に用いられていたが、両者の違いは明確ではない。時代が下るにつれて、白人も黒人も入り混じりジャズを演奏することが多くなった為、いよいよ定義が曖昧になってきた。

1917年にニューヨークに進出した、ニューオーリンズ出身のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)によって、「ジャズ」は多くに知れ渡り、メジャーなスタイルになったともいわれている。ODJBが進出する前は「ジャズ」は初期は"jass"と綴られており、ODJBも当初はそう綴られていたが、デビューした後に"jazz"に綴りを変えている。"jass"とは、体育競技のスピードとエネルギーを示すスラングであり、性的な意味にも使われていた。更に以前には"jasm"や"gism"と綴られていた。

音楽理論的側面 [編集]
上記の通り、何をもってディキシーランド・ジャズとし、何をもってニューオーリンズ・ジャズであるかといった定義が、ほかのスタイルのジャズよりもあいまいであり、一般的に通じる定義はないといってもよい。音楽理論的側面においてはこの2つのスタイルを分ける要素はない。

マルバタ クロスレ シュール しばざくら アスク たいざん ロスカ チーズ 白爵南瓜 モルガ ユーボ 冬の星座 ライオン いろはに ピーク ハスカ リッペ リーズ ダイヤ 雪の駅 マネタ ファース グラス おくやま スピンオフ スカッド レンジャー レジスタ バルキー 寄居かぶ メキシコ へきぎょく ダージジ パサク はま スティン つるむら 京野菜 コリンズ プール ギミッ デカル マンネリ ハイガイド トークッシ ロンティー サイトバラ メガ最適 ミズム どうちゃく

2009年03月24日

名鉄3600系電車

3600系とは、1941年から1987年まで名古屋鉄道に在籍した電車。

同型の片運転台電動車を特に3650系と呼ぶこともあるが、本項では同一系列として記す。

18m2扉の車体を持つ吊り掛け駆動・AL車(間接自動制御車)である。次に登場する3500系(初代)より番号が大きいのは、新製当初3350形で戦後に旧愛電3600形(初代3300形の片運転台車)と形式番号を交換したため。また設計の段階に遡ると3400系に続く3450系という形番であった。なおク2650形は後述の通り、厳密には3500系(初代)に属する車両である。


車体 [編集]
車体のみの長さはモ800形より10cm長い17.6m。ウインドシル付、1段上昇窓である。ウインドヘッダーは省略され、新製当初は全車窓上部隅に丸みがついて、優雅なスタイルとなっていた。

3600形は両運転台、3650形は片運転台であったが、後年3600形も片運転台化されている。

国鉄クモハ52形に対するクモハ43形(のち一部クモハ53形)と同様、この3600系は流線型3400系の「合いの子」版であった。

内装 [編集]
扉間転換クロスシートである。3400系と同様、新製当初のものを最後まで装備していた。扉付近のクロスシートは、車体中央に向けられた固定クロスシートである。ク2650形のみは後年のクロス化なので、座席の形状が異なる(5500系と同型)。

台車 [編集]
イコライザー式D-16だが、3400系のコロ軸受と異なり一般的な平軸受であった。1978年以降D-18に交換、コロ軸受化された。

編成 [編集]
3600系は同型のTcと組む4編成、3650系は3500系(初代)由来のク2650形と組成した2編成が在籍していた。なおク2650形の残り3両はモ3500形と組んでいた。

モ3600(Mc)-ク2600(Tc)
モ3650(Mc)-ク2650(Tc)
[モ3500(Mc)]-ク2650(Tc)

沿革 [編集]
1941年、東西直通運転に備えて登場。端整な外観に加えて当初は油圧カム軸式多段制御器を備え、3400系と並び名鉄の戦前型最高傑作として評価が高い。当時は東部線用ということで旧愛電3300系(初代)に続くモ3350・ク2050という形式であったが、戦後にモ3600・ク2600に改番された。

モ3650形は片運転台であるにもかかわらず、決まった連結相手はなかったが、戦後になってモ3500形(もと知多鉄道クハ950形の電装車3両を含む)の電装解除車が計5両編入され、ク2650形となった。このため、ク2650はウインドシル・ヘッダー付となっており、編成の中で統一されていなかった。

3600系は1955年にモ3601-ク2601?モ3603-ク2603の3編成が複電圧車に改造されて、600V区間であった西尾線・蒲郡線との直通列車に使用されたが、1965年に区間の1500V昇圧がなされたのに伴い、複電圧対応の装置類は外された。 また、1963年以降にモ3603-ク2603を除いて高運転台化改造され、窓上隅の丸みも撤去されたためスタイルが乱れてしまったが、モ3650形については最後までほぼ原型のスタイルを維持していた。

1987年までに全車廃車となった。モ3602-ク2602が愛知こどもの国で休憩所として保存されていたが、状態は良くなく既に撤去され現存しない。

フェルト オレキ マッチ キャム プロポ オオセンナ パドルボ ダカー 国道18号線 ストー ヤン サンゴ ウェー ジグラート ないえ ショルダ イチゴ マリネ シュラフ デュポン ジェイペグ 古時計 スペクト ビージ レベル ゲッケイ カーン マエスト ツルウ オギジ レアメ スキーマ ネオジム ラズライ トリトマ ビレイ きあか スフィン レザー ジャムウ ファイ ファクト オキナグ ハイクラ ケフェウ ペクシ スノー チェンジ スケイ ダカール


2009年03月08日

ダイナマイト

ダイナマイトはニトログリセリンを主剤とする爆薬の総称で、アルフレッド・ノーベルが最初に発明したのはニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませたものであるが、現在、社団法人火薬学会の規格では6%をこえるニトロゲル(後述のブラスチングゼラチン)を含有する爆薬の総称と規定されている。なお、本家スウェーデン語での発音は、『ダイナミート』である。

1846年に発見されたニトログリセリンは、鋭敏な爆発物で爆薬としての実用は困難であった。アルフレッド・ノーベルは1866年にこれを珪藻土にしみ込ませ安全化し、さらに雷管を発明して爆発のコントロールに成功した。1875年にはニトログリセリンと、同様に爆薬である低硝化綿薬(弱綿薬)を混合してゲル状とし、珪藻土を用いたときと同様に安定化するのに成功したブラスチングゼラチンを発明して、不活性物質である珪藻土の使用を止め、爆薬の威力を高めた。彼はこれらを事業化し多大な利益を得た。Dynamiteはギリシア語のdunamis(ちから)からきている。

珪藻土ダイナマイト
歴史的にノーベルが発明した最初のダイナマイトで、危険なニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませて安全化した。珪藻土は不活性物質で爆力には不利なので、ブラスチングゼラチンに置き換えられ、珪藻土ダイナマイトはすでに100年近く作られたことはないが法律用語に生きている。

ストレートダイナマイト
ニトログリセリンを硝酸ソーダと木粉等の活性吸収剤にしみ込ませたもので、綿薬を使用しない。ニトログリセリンの含有量を適宜変えて各種の威力のダイナマイトが作れる。研究用途であり、産業用には使用されない。

膠質ダイナマイトと粉状ダイナマイト
現在の産業用ダイナマイトはニトロゲルに各種酸化剤と燃料を混合したもので、ニトロゲル%が高いと膠質(ゲル状の固体)になり、低いと粉状になる。目的・用途により各種製造されている。

松ダイナマイト
ニトロゲル(ブラスチングゼラチン)そのもののダイナマイト。ダイナマイトの中では最大の威力が有る。研究試験用など特殊用途以外には使用されない。

桜ダイナマイト
膠質ダイナマイトの一。ニトロゲルに硝酸カリウムまたは硝酸ソーダを混合して造る。今日では産業用用途には用いられていない。

桐ダイナマイト
膠質ダイナマイトの一。ニトロゲルに硝酸アンモニウムを混合して造る。主力産業用ダイナマイトの一。新桐、3号桐等がある。

榎ダイナマイト
膠質ダイナマイトの一。桐ダイナマイトを改良したもので、硝酸アンモニウムの他に硝酸カリウムまたは硝酸ナトリウムを混合して爆発後ガスを良くし坑内用にも使用できる。2号榎が一般的である。 
しょうや ムンバ イルラ 永遠の約束 ブースター サルフ 享禄 きんちゃく パンダル マネタリ アップ アート フラゲ ニュース 星かげ 月の宮 スタジ 野の花 リミット トラック 日本海 ケーソ ブラワサ じょうるり レビュー 未来世紀 ビッドレ オーバ ストーンカメ 女峰 ブッファ シャリン セイシェル ファイ シング スチーム ティグ バトル ストップ レーダー オーパーツ ブイエ デデリ ギブアップ ピラー 時計台 タネソウ サーチカヤ タイミ レジュ

梅ダイナマイト
膠質ダイナマイトの一。桐ダイナマイトに減熱消炎剤(食塩など)を加え、炭坑内でメタンガスや炭塵に着火しないようにした検定爆薬。炭坑掘進用の主力ダイナマイトであったが、炭坑の衰微にともない、使用量は激減した。

桂ダイナマイト
硝酸アンモンを酸化剤とする粉状ダイナマイト。非検定爆薬。

硝安ダイナマイト
粉状ダイナマイト。硝酸アンモンを酸化剤とし、減熱消炎剤を加えた炭坑坑内用主力ダイナマイト。検定爆薬。現在の使用量はわずかである。

備考
桐、榎、梅などには製造会社や配合の小変化に伴い白、新などの語を付け加えることが多い。

産業用ダイナマイトの多くは直径32または25mmの円柱状に成型し、薬包紙で包み、溶融パラフィンに浸漬して外側に耐水、耐湿の皮膜をつくり保護する。粉状ダイナマイトは薬包紙筒かポリエチレン袋に充填包装する。

近来はニトログリセリンの一部がニトログリコールで置き換えられている。かってニトログリコールは不凍ダイナマイトに少量使用されたのであるが、現在は石油化学の発達により原料となるエチレングリコールが、天然油脂の加水分解によって得られるグリセリンよりも安価に製造できるので、ニトログリコールの使用量が増した。

炭坑用以外のダイナマイトは近年安価な含水爆薬やアンホ爆薬に置き換えられている。

2009年02月20日

デスラー艦

デスラー艦(-かん)は、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに登場する架空の宇宙戦艦。
秋日和 プレス タンポポ ダブル マイケル ビーカー ナリラ フェア ストリ テロメ シャープ オール シャッポ ゆりはま ユーアー フレア トルク リリシ マルチ ソファ ウテルス みこも コデマリ ノータッチ ヘルパー ミョウガ シビア ゼッケン プラー フィンランド 仙人掌 ゲル対策 美の気配 スタッカー ヌートリア パンサー グロビン かいづか プロポョン スイング オステ ノール おのいし お座敷 パラッツ ゆとう シナモン フットケア サポーター バスターズ

ガミラス帝国、のちにガルマン・ガミラス帝国のデスラー総統の御座艦で、帝国軍総旗艦を兼ねる。初代、二代目、三代目を通じて、ブルーの艦体色と艦首デスラー砲という共通の特徴がある。

初代
『宇宙戦艦ヤマト』に登場するラムネ瓶状の戦闘艦。ガミラス本星の天井都市の総統府[1]が、緊急用の脱出艦となっていた。

全長はヤマトの半分程度と小型である。デスラー砲の発射直後にワープが可能である。また微速後進しながらワープに入れるなど、ユニークなスペックを備える。

兵装はデスラー砲、その他に大口径レーザー砲3門、ミサイル発射管8門装備。

諸元
全長 ヤマトの半分程度。
全幅
全高
基準排水量
乗員
主機 波動エンジン×1基
兵装 デスラー砲
大口径レーザー砲×3門
ミサイル発射管×8門
ロケット制御の銛

での登場
地球帰還直前のヤマトの装甲にロケット制御式の銛で穴をあけ、それを通路にして乗り込み白兵戦を挑んだあと、デスラー砲を浴びせるが空間磁力メッキに跳ね返され自滅した。

二代目
『宇宙戦艦ヤマト2』、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』[2]、『宇宙戦艦ヤマト 完結編』に登場する艦で、デスラー艦としては最も有名な艦である。

白色彗星帝国の大帝ズォーダーから提供された艦で、ガミラス純正の艦では無い。ゴーランド艦隊の妨害電波を消去する電子戦装備も持つ。

兵装は、艦首にデスラー砲とデスラー戦法用の瞬間物質移送器が装備されている。左右のデッキ上にはガミラス式の三連装無砲身レーザー砲塔や対空装備として三連装のパルスレーザー機関砲が装備されている。艦底部には磁力機雷散布装置も備える。

諸元
全長 235m
全幅 74.6m
全高
基準排水量 49500t
乗員 最大乗員数50名。最小乗員数2名。
主機 波動エンジン×1基
兵装 デスラー砲
大レーザー砲×3門
ミサイル発射管×4門
瞬間物質移送器
三連装ガミラス式無砲身レーザー砲塔×2基
三連装パルスレーザー機関砲×8基
磁力機雷散布装置

劇中での登場

『さらば宇宙戦艦ヤマト』
乗員はデスラーとタラン以外は、全てアンドロイド兵で、ヤマトとの白兵戦の際に、兵をコントロールする制御盤を破壊され機能停止する。

『宇宙戦艦ヤマト2』
ガミラス人の乗組員が多数乗艦している。太陽系での決戦ではヤマトの波動砲を磁力機雷の転送で封じ、戦略的勝利を収めたが、直後の白兵戦で大破、遺棄された。

『宇宙戦艦ヤマト 完結編』
辺境視察に使用していた。トリチウムを積んだヤマトを援護し、プレ・ノアに乗ったディンギル帝国ルガール大神官大総統をデスラー砲[3]で殲滅する。

三代目
『宇宙戦艦ヤマトIII』に登場する、ガルマン・ガミラス帝国の総統としての御座艦にふさわしい、全長1,350mを誇る巨大戦艦。新型デスラー艦[4]とも呼ばれる。

曲線主体のガミラス様式から外れたブロック構造状のガルマン式の艦体が特徴で、彗星帝国の技術等もかなり反映されている。兵装は艦首にハイパーデスラー砲を装備。両翼部に瞬間物質移送器を備え、艦体にガトランティス式大口径パルスレーザー回転速射砲塔7基、艦底には惑星破壊プロトンミサイル(?)2基装備が外見から読み取れる。

エンジン推力はボラー連邦の機動要塞の放つブラックホール砲にも対抗できる力を持つ。

諸元
全長 1,350m
全幅
全高
基準排水量 49500t
乗員
主機
兵装 ハイパーデスラー砲
瞬間物質移送器
ガトランティス式大口径回転速射砲塔×7基
超大型ミサイル×2基

劇中での登場
シャルバート星上空でボラー連邦艦隊をハイパーデスラー砲で全滅させる。

太陽制御中のヤマトがボラー艦隊の攻撃を受けているときに、親衛艦隊のデスラー砲艦を率いて登場。ボラー連邦の首相ベムラーゼは機動要塞で自信満々にデスラーを直接対決を挑むが、要塞もろともハイパーデスラー砲で葬り去られる。

その他の御座艦
上記の3艦の以外にも一時的に御座艦となった艦が存在する。

『宇宙戦艦ヤマト2』
駆逐型デストロイヤー艦
彗星帝国を脱出したデスラーを収容した、バレルド・アクション将軍の指揮下にあるガミラス艦。直後に二代目デスラー艦が返還された為、仮御座艦とされた時間はごく僅かである。
三段空母(第一空母)
二代目デスラー艦がヤマトとの白兵戦で大破した際、タランの進言もあり、デスラーは二代目を放棄し移乗する。デスラー戦闘空母が完成するまで、仮御座艦として使用されている。

『新たなる旅立ち』
デスラー戦闘空母
戦闘空母を改装し臨時の御座艦と使用される。御座艦としては、唯一赤色[5]の艦体色である

2009年02月04日

斯波氏(しばし)は、清和源氏の一流

斯波氏(しばし)は、清和源氏の一流 河内源氏の流れを汲む名門・足利氏の有力一門。本姓は源氏。室町時代に幕府の三管領の一つとなった一族であり、越前・若狭・越中・能登・遠江・信濃・尾張などを領した守護大名である。
ノーメーク ジェルカン かじぼう スリナ ひこぼ ビオトープ マイクナキ フルーツ カラー ロッキー スイン ナナカマ けいは でんと ノクラス あみだ ジャン ストーン いかりがせ ハーモニー オーリ シングル キッザニ ガポド キック ヤード ダン アップテロ トリガー タフタ ムチン キューテ タイゲーム ハーフアド ききょう リズム でんでん イーグル ディルド オーラオン スケート ラッシ フルート 時の舟 セラック キープ モノクロ デリック フリーラ ブラック

斯波氏は、足利家氏が陸奥の斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたことから斯波氏と称するのを始まりとする。ただし当初は足利氏を称しており、斯波を名字とするのは室町時代となってからのことである。

斯波氏初代とされる家氏は足利泰氏の長子であり、本来ならば足利宗家の後継となるはずであったが、生母が北条氏一門では非主流派の名越氏の出身であったため、北条得宗家の時宗の叔母が産んだ弟の頼氏が足利宗家を継承した。しかし、身分が鎌倉幕府の直臣たる御家人であることに変わりはなく、足利氏の庶流が足利家の家人になっていったのに対し、従来通りに足利の名字を称して一線を画した(庶流は細川、一色などと新たな家名を立てた)のである。 家氏の子孫は代々尾張守に叙任されたため、別名尾張足利氏ともいう。尾張足利氏は足利氏一門の中でも、嫡流、三河足利氏(後の吉良氏)、と並び称される勢威のあった家で、足利氏本宗家当主が幼少の時は代役を務めている。

元寇以来、得宗専制に走った鎌倉幕府は次第に他の御家人を圧迫するようになり、社会に不満が溜まるようになる。後醍醐天皇は倒幕の綸旨を下し、大きな転換期を迎えた。当初、幕府方として後醍醐の企てを阻止する側に加わっていた足利尊氏は次第に倒幕の志を秘めるようになり、一門の重鎮 吉良貞義に相談の上、朝廷側への寝返りを決行。斯波高経や斯波家長らも足利尊氏に従い、活躍した。その後、足利尊氏は武家を軽視する建武政権と袂を分かち、武家の支持を集めながら武家政権設立を目指す。とりわけ斯波高経は足利氏と同族で、鎌倉幕府を滅亡させた立役者である新田義貞を越前で討つなど活躍し、初期の室町幕府においては勢力を持った。特に、斯波家長は奥州総大将として南朝方の北畠顕家らと対抗し、北朝方を徐々に優勢に導いてゆき、奥州で斯波一族が指導的役割を果たす基礎を築いた(奥羽における斯波氏については奥州斯波氏を参照)。

武衛家

三管領筆頭斯波氏
武衛家とは斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。武衛とは兵衛督および兵衛佐の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。

斯波氏は室町幕府において執事(後の管領)として任用されるようになる。しかし、幕府は将軍家の家政機関であり、将軍家とほぼ同列の格式を持つ斯波氏が幕府の要職に就くということは、将軍家より格下で臣下だということを認めることであった。事実、それまで足利氏の執事は臣下の高氏が歴代務めていた。そのため当初、斯波高経は臣下がなすべき執事への就任を渋っていた。しかし、結局は高経の子 斯波義将が執事に就任し、高経がこれを後見することとなった。

幕府の執事となった斯波義将は佐々木道誉の策謀により一時は失脚。後に幕政に復帰すると、管領の細川頼之と対立し、反細川派の勢力を結集し、3代将軍足利義満に頼之の罷免を求める康暦の政変で管領となる。

斯波義将は義満の没後も将軍足利義持を補佐し、朝廷から義満に対する太上天皇の尊号を追号する事を拒否したり、勘合貿易の廃止を提言するなど影響力を持った。

幕府において三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏、細川氏と管領を出す家柄として重んじられ、他の二家を抑えて三管領筆頭の家柄を有するに至った。斯波義重は1399年の応永の乱における大内氏討伐の功により越前国・尾張国の守護職を与えられ、以降世襲する。しかし、義将死後は衰退への道をたどり、斯波義重は1414年に将軍足利義持の不興を買い、高野山に隠退、1409年に管領職を譲られた孫の斯波義淳もまもなく解任され、足利義教が6代将軍に就任するまで長い間、幕府から冷遇される事となった。

衰退
斯波氏は家柄としては三管領の筆頭を誇り勢力も大きいことから嫡流も奥州に拠点を持った斯波氏の一門(高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏、天童氏、ら)らも当初は大いに栄えた。しかし、中央においては細川氏が政治の拠点 畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に所領を有すのに対して、斯波氏の所領は尾張国と越前国という京都から遠い場所であり、また領地同士が分断されていた。当主は京に滞在していることが多いため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に領国の実権は朝倉氏や織田氏などの守護代、重臣らに牛耳られるようになっていった。応仁の乱の際にいち早く斯波氏が守護職をつとめる越前で下克上が発生するのはそのためである。

応仁の乱前夜、斯波家嫡流の武衛家では斯波義健没後、家督相続をめぐる争いが起こった。斯波氏庶流にあたる斯波大野氏からの養子であった斯波義敏と、渋川氏出身の斯波義廉とが家督を巡って争ったのである。この家督争いが足利将軍家や畠山氏の家督相続と関係して1467年の応仁の乱を引き起こす原因の1つになる。応仁の乱に際しては義敏も義廉も領国に下ってその一円支配を目指すものの、遠江国を今川氏に、越前国を朝倉氏に奪われて領国の大半を失い、尾張国で義敏の子孫が何とか守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。

なお、斯波義廉の子義俊は、室町将軍家の分家である越前の鞍谷公方を継ぎ、鞍谷義俊となっている。

武衛家の滅亡
斯波氏嫡流では1554年、ついに斯波義統が守護代の織田信友に殺される事件が起こる。嫡子の斯波義銀は織田信長を頼った。信長にとって信友は本家であると同時に主君筋であった。しかし、信友が守護である斯波氏を討った、すなわち、守護への反逆をおこなったため、信長はこれを口実に信友を滅ぼすことに成功した。さらに信長は諸国の目を欺くため、一時、隠居し所領のすべてを斯波氏に返上した形をとり、吉良氏、今川氏との同盟を結んだ。

この時のエピソードとして、斯波氏が吉良氏と同盟する折、信長は義銀に随従し、同盟相手である吉良義昭への会見に臨んだが、席次をめぐって対立を起こしたという。吉良氏は「足利将軍家が滅んだ後は吉良氏が将軍職に」と定められた将軍継承権を有する家であったが、斯波氏も鎌倉時代以降、足利の名字を有し続け、幕府にて高い格式を誇り、引け目はないと主張したのである。ともあれ、いさかいを起こしながらも、一応同盟を結んだ両家は次第にともに共謀して反信長に結束することになる。

1561年に義銀は吉良義昭や、斯波氏の一族で幕府の重鎮の家柄であった石橋殿を味方に引き入れ、信長討伐の陰謀を図るものの、未然に発覚して追放された。これによって斯波氏は事実上滅亡した。

義銀の次弟は毛利秀頼として織田信長に仕え、三弟は津川義冬として信長の次男 織田信雄に仕えた。しかし、大名としての斯波氏嫡流が復活することはなかった。後に前田利家の家老として斯波氏の一族が確認されるのみである。

奥州斯波氏
奥州斯波氏(おうしゅうしばし)は奥州に定着した斯波氏の諸流をいう。高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏、天童氏(元々は里見系、斯波家兼の系統)、石橋氏、塩松氏などがある。

大崎氏
そもそも斯波氏の名乗りの起源は陸奥紫波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。南北朝時代には斯波家長、ついで斯波家兼が「奥州総大将」として奥羽での軍事指揮権を発動した。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断、沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。観応の擾乱期には畠山国氏、吉良貞家らが任ぜられたが、斯波家兼の子孫である斯波奥州家がやがて就任し、世襲する。

奥羽は南北朝期から、郡ごとに有力国人に軍事指揮権や権断権など強い権限を与えた「分郡」とも呼ばれる独自の制度があり、非常に有力国人の力が強く、奥州管領の斯波奥州家も大崎郡を分郡として引きこもる傾向が強くなり、大崎氏と呼ばれるようになる。一時奥羽は鎌倉府管内に編入されるが、奥州探題職が作られた後は、大崎氏が代々探題に就任する。探題は管領と同じ権限を持ったと思われるが、のちに奥州の有力国人は将軍家と直接主従関係を結ぶ「京都扶持衆」となり、奥州南半には篠川御所、稲村御所など鎌倉公方の分家が入府し、勢力を持っていたため、奥州管領時代のような威勢は無くなった。 やがて大崎氏は次第に膨張する伊達氏の圧力をまともに受けることとなり、衰退する。大崎義直は家中の騒乱を自力で鎮圧できず、伊達氏から養子を迎えることで支援を受け鎮圧した。その後養子大崎義宣を排除し自立を果たすも伊達氏の圧迫を受け続ける。伊達政宗が大崎征伐に乗り出すと苦戦を強いられたが、最上氏庶流の黒川晴氏が大崎方に寝返ったことで家の命脈だけは保つことができた。

しかし、結局大崎氏は、小田原参陣に呼応しなかったため、改易された。子孫は最上氏に仕えた。

最上氏
奥州探題が設置されたのとほぼ同時期、出羽にも羽州探題が設立され、斯波奥州家の分流の斯波出羽家が探題を世襲する。この一族が最上氏である。

最上氏もやがて伊達氏の傘下に組み込まれ傀儡化されたが、次第に独立を果たし、最上義光の時に出羽に領国を広げ、庄内地方をめぐり上杉氏と激しく抗争した。その後、関白豊臣秀吉の小田原の役に参陣し20万石の大名として所領を安堵される。豊臣秀吉の死後は、徳川家康率いる東軍に加わり、西軍の上杉景勝から攻撃され、窮地に立たされた。しかし関ヶ原での西軍敗北の報が届くと上杉軍は撤退し、庄内地方の奪取にも成功。この功により、最上家は58万石の大大名に列せられた。しかし、孫の最上義俊の代に御家騒動が起こり、江戸幕府の命により改易とされ、大名としての最上氏は滅亡した。

義俊は改めて近江国に一万石を与えられたが、義俊の死後、子の義智が幼少であったため5000石に減ぜられ、子孫は交代寄合として続いた。義俊の叔父で御家騒動の原因でもあった山野辺義忠は徳川頼房に取り立てられ、子孫は水戸藩家老の山野辺家として続いた。

陸奥守家
高水寺城を拠点に栄えた斯波氏(高水寺斯波氏、斯波御所とも)の一族は斯波家長の直系子孫。一応、『続群書類従』には簡易な系図が挙げられているものの裏付となる資料も乏しく、系図は必ずしもはっきりしていない[1]。高水寺斯波氏は、名族であることから「斯波御所」「奥の斯波殿」と尊称され、書札礼でも大崎氏と同格であった。永享7年(1435年)に発生した和賀・稗貫の乱では大崎氏の職務代行者として北奥の諸氏を指揮している。斯波詮高の代には岩手郡滴石(岩手県雫石町)の戸沢氏を攻略し、角館へ退去させるなど積極的な拡大も見られた。詮高は庶子を新領に配置し、それらは居館の地名から「滴石御所」、「猪去御所」と呼ばれる。

また、和賀氏や阿曽沼氏庶流鱒沢氏、九戸氏らと婚姻関係や養子縁組を積極的に行い、大いに威をはった。詮高の死後には南部氏の圧力が増し、斯波詮直のときに入婿していた九戸政実の弟中野直康が南部氏に寝返り、岩清水義教や大萱生秀重を諜略した。1586年、南部氏に内通した家臣岩清水義教を攻めたことから南部信直の侵攻を受けた。詮直は領内に動員令を発したが、多くの家臣は離反し南部軍に投降するか屋敷に篭り、高水寺城に駆けつけたのは義教の兄岩清水義長、家老細川長門守、稲藤大炊助など少数だった。詮直は高水寺城を放棄して大崎氏のもとへ逃亡。岩清水義長は高水寺城で戦死する。斯波詮直はその後諸国を放浪し、その子孫は南部氏に仕えている。

武衛家歴代

家督
斯波高隆
斯波義将
斯波義重
斯波義惇
斯波義郷
斯波義健
斯波義敏(大野郡領主)
斯波義寛
斯波義廉(実渋川義鏡子)将軍家介入により
斯波義敏(再任)
斯波義廉(再任)
斯波義寛(再任)
斯波家氏
斯波家宗
斯波家貞
斯波高経
斯波家兼(大崎氏へ)
斯波義将
斯波氏経
斯波家長(奥州斯波氏へ)
斯波義重
斯波義淳
斯波義豊
斯波義郷
斯波義健
斯波義敏
斯波義廉
斯波義寛
斯波義達
斯波義淳
斯波義統
斯波義銀
毛利秀頼
津川義冬

系譜[2]
凡例 太線は実子。細線は養子。   
(斯波氏、武衛家、陸奥守家) (応仁の乱以降の系図には不明確・不正確な部分もある。)

家氏

宗家

家貞
┣━━━┓
高経  家兼
┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
家長  氏経  氏頼  義将  義種(大野郡)
┃   ┃       ┃   ┃
詮経  義高       義重  満種
┃   ┏━━━┳━━━┫   ┃
詮将  義淳  義郷  持有  持種
┃   ┃   ┃       ┃
詮教  義豊  義健       義敏
|   ┏━━━┫      
詮勝  義敏  義廉
┃   ┃   ┃       
詮重  義寛  義俊
┃   ┃        
詮高  義達  
┃   ┃        
経詮  義統
┃   ┣━━━┳━━━┓        
詮真  義銀  秀頼  義冬

詮直

詮種

行詮

奥州斯波一族衆
陸奥守家

斯波詮高
雫石詮貞
猪去詮義
斯波経詮
斯波詮真
斯波詮直

奥州斯波主要家臣団
雫石久詮
猪去久道
岩清水義長
細川長門守
稲藤大炊助
工藤茂道
太田主秀広
大萱生秀重
川村右近秀久(大萱生秀重二男)
江柄兵部少輔
川村秀久
江柄次昌(川村秀久子)
手代森秀親
中村作右衛門
栃内秀綱
簗田詮泰
星川左馬助
岩清水義教
清水善七郎
乙部義説
大釜政幸
多田忠綱
達曽部清綱(多田忠綱子)
氏家義方
長岡詮尹
玉井庄兵衛
宮手英清
飯岡祐貫
中島安将
小屋敷義長

2009年01月21日

スキーの際に人が履く履物

スキーの際に人が履く履物。スキー靴とも呼ぶ。スキーブーツはビンディングを介してスキー板と接続される。1930年代以前は登山靴などが用いられていたが、ビンディングでよりしっかりと固定可能な専用靴として開発されたものである。[1]

アルペンスキーのスキーブーツは、ブーツとしては脛までを覆う長さ、膝下というにはやや短い程度となっている。足首から脛にかけての広範囲が柔軟性に乏しいスキーブーツに覆われることによって、スキーヤーは足首捻挫を起こすことなく、スキー板からの力を受け止め、あるいは積極的にスキー板へ圧力をかけるべく運動することができる。スキーブーツのソールの形状はISOで規格化されており、どのセイフティビンディングとも互換性が保証されている。

1970年代前半までは皮革製が一般的であったが、1960年代後半に登場したプラスチックブーツが1970年代後半には一般的となった。ほとんど全てのスキーブーツは、外側を覆うシェルと、足が直接触れるインナーブーツの二重構造になっている。シェルの素材としては、ポリウレタンが弾性などの力学的特性の良さから好んで用いられている。なかでも、ポリエーテルポリオールを原料とするポリエーテルポリウレタンが上級者モデルでは好まれるが、ポリエステルポリオールを原料とするポリエステルポリウレタンも広く用いられている。ポリウレタンは加水分解などにより徐々に分解するため、長期間の利用によりスキーブーツは割れたり崩壊することがある。実際にどれくらいの期間で破損に至るかは組成や利用頻度・保管条件などによりまちまちだが、業界団体(日本スポーツ用品輸入協会・スキー靴部会)では製造から5年程度を目安として、滑走中の破損による事故を防止するためにチェック項目を含めて広報している。なお、初級者モデルでは、より柔かいポリエチレンなどが用いられる場合もある。インナーは、シェルと足の間を埋め、適度なクッション性と保温の効果をもたらすために存在する。主な素材は合成樹脂による発泡フォームであり、足と接する内側には起毛やパイル地などの保温性の高い柔かい布が、シェルと接する外側にはすべりのよい合成繊維の布や薄いプラスチック板が用いられていることが多い。

構造
現在のアルペンスキーのスキーブーツの構造は、フロントバックル型と呼ばれるものがほとんどとなっている。このほか、フロントバックル型の派生として3ピース型やミッドエントリー型と呼ばれるもの、あるいはソフトブーツといったものがあり、また、全く異なる構造のものとしてリアエントリー型が存在する。以下、フロントバックル型の構造について説明し、ついで他の型についても説明する。

フロントバックル型は、プラスチックブーツに移行する前の皮革製のころからのスキーブーツの基本型で、甲と脛にあるバックルでシェルを締めて足をブーツに固定するのが最大の特徴である。シェルは、多くのものはソールと一体となって踝までを覆うロワシェルと、踝から脛にかけてを覆うアッパーシェルの2つに分かれており、両者がビスで接合されている。シェルは、ロワシェルとアッパーシェルの両方とも前になる部分が開き、かつ左右から重ね合わさる形状となっていて、そこにバックルとバックル受けが取り付けられている。このような形をとることで、バックルを締めることで足を固定することができるようになっている。バックルはロワシェル部分、アッパーシェル部分それぞれについて1〜3つ存在するが、多くのものは各2となっている。また、アッパーシェルのバックルの上、ブーツの最上部にベルクロテープつきのベルトを備え、これでさらに足を固定するものが近年は多い。ロアシェルの下部はソールが一体となっている。ソールはセイフティビンディングにハメ込むためのコバがトゥとヒールの前後両側に大きく張り出している。一部のメーカーのソールは摩耗時の対策としてビス留めのトップリフトをトゥとヒールの両方に備えており交換可能としている。ロアシェルの内部では、安価な初級モデルを除いて硬質プラスチックや金属製によるミッドソールが入っており、インナーブーツを載せる台の役割を兼ねている。硬いミッドソールは革靴におけるシャンクと同様に強い力がかかったときにソールが歪むことを防ぐ。これは滑走時に大きな力がかかるスキーブーツではビンディングの誤解放を防ぐ意味でも重要である。なお、革靴のシャンクと異なり、アルペンスキーのスキーブーツでは足指にあわせてソールが屈曲するようにはなっていない。山岳スキー用の兼用靴やテレマークスキー用のブーツでは足指にあわせてソールが曲がるように作られているが、アルペンスキーでは歩行やテレマーク姿勢を考慮する必要がないためである。フロントバックル型のブーツのインナーブーツは、インナーブーツ本体とタンから構成される。インナーブーツ本体は甲から脛の部分が大きく開いていて、タンが下部で固定されているという形状が通常である。タンにはインナーブーツ本体よりも固い素材を用いることが多い。なお、インナーブーツ内には、通常、インソールが入っていて、足裏とフィットするようになっている。

フロントバックル型のバリエーションのひとつは、3ピース型と呼ばれるものである。これは、シェルをロアシェルとリアシェルとフレックスタンの3つから構成するものである。ロアシェルとリアシェルが通常のフロントバックルのシェルに対応するが、前部が大きく開いた形状となる。そこに、蛇腹状に成形されて柔軟性を高めたプラスチックのタンが覆いかぶさり、これをワイヤーのみ、あるいはワイヤーとバックルの両方で締めて固定する。インナーブーツは通常のフロントバックル型とほぼ同様である。特許や金型の問題から、製造は1社のみだが、根強いファンが存在している。

フロントバックル型のバリエーションのもうひとつは、ミッドエントリー型と呼ばれるものである。これは、快適性を重視したもので、フロントバックル型のシェルのアッパーシェルが前後に分かれて開くものである。フロントバックル型のブーツは、前述のようにオーバラップしたシェル素材で覆われているため、足を出し入れするさいにはブーツを手などで押し開く必要があり、この手間はスキー初心者などには受け入れがたいものだとされることが多い。また、一般にフロントバックルブーツのアッパーシェルは、滑走時の姿勢を重視した角度でロアシェルに取り付けられているが、これは休憩時などに立ったままでいたり歩くのに不便である。ミッドエントリー型はこうしたフロントバックル型の欠点を取り除くために開発されたものだが、性能面の問題で熱心なスキーファンを引きつけるものとならなかったこともあり市場に定着できていない。
ブロース フィンガ チボウ ハロゲン アゴニスト リバタ シェル ハーフ あまおう スカム シャーク ステコミ ジャブ ブレー スリー フィッシュ ポプラ ロユリ ランブル さとち マリン マンディー プラク ヒール ルノー リスト ドオオ ヒット ダンス にしなり ブール マレー ビアン ハイタッチ デッキ エイド タグ最強 ホップ ラッチ サブリ ジェイリ タバスコ ワンダン ステーキ 恋人たち プレス オフィス レイシズ とまや バージャケ

いまひとつのバリエーションは、ソフトブーツである。フロントバックル型のスキーブーツが快適でないのは、足入れのしにくさとともに、シェルが固いことそのものにもある。そこで、スキーを滑るのに必要な剛性を確保するフレームのなかに柔かいインナーブーツを固定するという形でスキーにおけるソフトブーツが2000年代初頭に実現され、市場に出た。性能面の問題から市場に定着せず、2007年現在は新モデルとしてみることはなくなっているが、レンタルスキー用具としては使われている場合がある。

最後に、フロントバックル型とは全く異なるリアエントリー型である。リアエントリー型は、シェルがフロントシェルとリアシェルの2つに大きく前後に分かれる。リアシェルはふくらはぎから踵にかけてのブーツ後方の部分となっており、そこが下部をヒンジとして大きく開く。ソールは全てフロントシェルに属している。リアエントリーのブーツでは、リアシェルを開いた状態でインナーブーツも後方が大きく開口していて、そこに足を入れ、リアシェルを閉じてふくらはぎのバックルで締める(リアシェルの内側にはインナーブーツの蓋がついているため、足に直接接する部分はインナーブーツである)。フロントバックルやそのバリエーションのブーツでは、足はシェル全体の締め付けで固定される。それに対して、リアエントリーのブーツのバックルで締め付けられるのは、脛とふくらはぎのみとなる。スキー滑走では足全体がブーツに固定される必要があるので、リアエントリーブーツでは、固定用のプレートをシェルに内蔵し、足首はプレートを介してワイヤーで締めつけてブーツに固定し、甲に対してはプレートをねじを用いて押しつけるように固定するものが多い。リアエントリーは1980年代に席巻し、一時はトップスキーヤーまでもが用いるモデルが登場したが、1990年代になってその利用が衰退した。リアエントリーブーツは足首を曲げづらく、スキー技術において足首を使えないのは致命的であるためである。ただ、構造上、スキーヤーの足に細かくフィットした形状でないと不快感が出やすいフロントバックル型と異なり調整範囲が極めて広いことや、容易に脱着できること、爪先や甲が浸水して濡れることがないことから、初級スキーヤー向けのレンタル用品としては残り続けている。